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節分の本当の意味なんのためにやるのか

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節分の本当の意味なんのためにやるのか

節分について「なんのためにやるのか」「本当の意味って?」などご紹介します。

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節分の由来と起源、節分の本当の意味

節分の由来や起源についてです。まずは節分の由来や起源を調べて、「なんのためにやるのか」「本当の意味って」何かを知りましょう!

節分の由来「鬼やらい」

節分の由来となる行事でよく出てくるのは「鬼やらい」です。
これは平安時代の宮中行事である「追儺(ついな)」が源流となっていると考えられます。

節分の起源「追儺」は中国の「大儺(たいな)」が由来

この節分の起源でもある「追儺(ついな)」は、中国の「大儺(たいな)」「儺(だ、な)」の風習が始まりとなります。
この大儺は周時代(紀元前1100年頃)にはすでにあったようで「周礼(しゅらい、儒教経典の一つで紀元前11世紀に周公旦が作ったと言われるが偽書の可能性もある)」にその儀式について詳しいやり方が書かれています。周時代以前からも存在していたようですがはっきりしたことはわかっていません。
現代では立春の前日に行っていますが、この当時は年に三月(季春)と八月(仲秋)と十二月(季冬)の3回行っていました。しかし漢の時代には十二月(季冬)の大儺だけが行われるようになり「一年の終わりに疫や鬼を追い払い、年を送って新年を迎える」と言う意味が強くなったようです。

節分文化と歴史、なんのためにやるのか

節分の由来から日本における節分文化の歴史をみましょう!

日本における「大儺」節分の歴史

この中国の「大儺」ですが、日本では文武天皇の慶雲3(706)年には行われていたことが『続日本紀』に書かれています。
「是年(慶雲三年),天下疫疾,百姓多死,遂作土牛,大儺」とあり、訳すと「この年に疫病がはやり多くの人が死んだため、土牛を作り大儺が行われた」と言う感じでしょうか。菅原道真が編纂した「類聚国史」にはもっと簡潔に「土牛大儺」の文字があります。
706年〜707年は疫病が蔓延し、天候不順や人手不足による不作で飢饉が起こり、特に出雲・石見・丹波で甚大な被害を与えていました。この当時の疫病というのは天然痘のことで、伝染力が非常に強く死に至る病で治っても顔に瘢痕(あばた)が残るため忌み嫌われていました。

ただ、この時の「大儺」は疫病を祓うために、陰陽師が土製の牛の像たてる「土牛」を作ったことを指しているようにもとれます。追儺を行ったかどうかは微妙なところですね。この慶雲三年の大儺に関しては「大宝律令にやり方載ってるんだしやってる」「土牛で大儺したんだからやってない」「大祓と大儺と土牛をやったって書いてあるから全部バラバラにやった」などさまざまな意見があるようです。なんせ今から1000年以上昔の話です。確定は難しいですね。
気になる方は下記の本など読んでみてくださいね!

spc.jst.go.jp

昔の節分、「大儺」はどのように行われたか節分文化

では「大儺」「追儺」はどのような儀式だったのでしょうか。大宝律令に書かれていますのでみてみましょう。

というものだったようです。
この様子は中国で行われていた「大儺」を簡略したもののようで、同じ儀式だったことが伺えます。

またこの儀式は京都の平安神宮で、時代考証に基づいて再現されています。
節分の時期に行われる平安神宮節分行事「大儺之儀(だいなのぎ)」がそれにあたります。
非常に見応えがあります。

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「大儺」の儺は難、両面宿儺も儺

「大儺」の儺という文字は元々は「難」の漢字が中国では使われていたようです。しかし徐々に「儺」に変わっていき、それに伴い儺にも「厄祓い」の意味が備わっていきました。
「儺」という字は、「人偏」と「難」で構成され「人」は火、「難」は旱魃、落雷、山火事などの災難を表しています。この「儺」という字そのものが「人が火で、悪鬼を祓う災難よけの行事」になるのです。

この儺という字は「両面宿儺」の中にも入っていますね!

両面宿儺は仁徳天皇の時代に現れたという鬼神です。一つの胴体に二つの顔と8本の手足があり力が強く非常に素早く、日本書紀の中では人々から物を奪う悪漢であった為、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)に退治された、となっています。しかし日本書紀以外では「救国を行った」「高沢山の毒龍を制伏した」といった伝承が多く、朝廷の権力に抗った地方の豪族だったという説も。
近年ではアニメ「呪術廻戦」で人気がでた両面宿儺、彼もまた悪鬼を祓う存在だったので儺という漢字が使われたのかもしれません。

方相氏と四つ目

「中国神話伝説大辞典」という本に方相氏のことが出ています。

開路神の前身で、疫鬼(えきき)を駆逐する官。
方相氏は疫鬼を追い払う古代の画像神で、棺を送るにも用い、後世のいわゆる開路神、険道神(先導神)にほかならない。
黄帝の第一妃の螺祖(らそ)が周遊の途中で死すぬと、第二妃の嫫母(ぼぼ)を召して守らせたため、嫫母を方相氏とした。
おそらく嫫母は姿が醜く、疫鬼を追い払う神に似ていたので、このような伝承が生まれたのであろう。

中国神話伝説大辞典 p623より

嫫母が醜かったということで「嫫母は黄帝のときにはきわめて醜い女であった。錘(おもり)のような額、戚(おの)のような鼻で、体が大きく、色が黒かった。今の魌頭(きとう)〔大儺(たいだ)でかぶる鬼面〕はその名残」とまで書かれています。ただこの文章だけで見ると「四つ目」ではなさそうに感じますね。
方相氏は元々は二つ目だったが、熊の頭がついた毛皮をかぶっていたため「熊の目と本物の目」が一体化して四つ目のように見えたことから四つ目になったという話もあります。

儺面と能面

この大儺の儀式の時に被る仮面のことを中国では「儺面」と呼びます。また鬼神の登場する仮面劇を「儺戯」と呼んでいます。
室町時代から続く京都の吉田神社では節分祭で追儺を行います。もちろん四つ目の方相氏が出てきます。彼は四つの目で四方=四至をにらむことができたとされます。

節分祭について−吉田神社

この吉田神社節分祭の追儺では儺のことを「ノウ」と発音します。また中国でも儺は「ノウ」です。
故実叢書(有職故実に関する典籍・図版の集大成)でも追儺で 「のう のう のう」 と言うとされています。
この追儺の儺面は「ノウメン」と発音され、日本では能面へと変化していったのではないか、ともされています。
このことに関して、京都大学の研究報告がガチガチにフィールドワークされていて、本当に読み応えがありましたので、是非お読みください。このサイトを読むよりも節分の起源や由来がよくわかります。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/87717/1/dyn00009_120.pdf

鬼になってしまった方相氏

これまでの方相氏はずっと災厄を追い払う方の鬼神でしたが、現代の豆まきは方相氏は鬼となって追い払われています。
いったいいつから方相氏の立場が悪い鬼へと変わったのでしょうか。
慶雲三年=706年に初めて出てきた大儺ですが、これはそのまま全国的な普及はないものの宮中行事として平安後期まで行われています。
しかし平安後期の政治家・学者である大江匡房の「江家次第」(1100年に大江匡房がなくなるまで書かれた)では「殿上人於長橋内射方相」とあり、方相氏が殿上人に長橋から射られる=追い払われる鬼の役目になっていることが伺えます。
方相氏は平安時代に「疫病や厄を祓う鬼神」から「疫病や厄を蔓延らせるので追い払われる鬼」なってしまったのです。
このことにはいくつか理由があるようです。

方相氏はその異形な姿、疫病を寄せ付けない=疫病そのもの、死者を墓所へと先導する、ということから鬼そのものになったんですね〜。
この方相氏の変遷については名古屋大の論文が詳しいです。この方、フランスの方のようなんですよね。フランス人なのに日本の文化に詳しすぎる。

https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/nichigen/issue/pdf/5/5-03.pdf

節分の本当の意味なんのためにやるのか

さて節分の本当に意味についてです。

大晦日に行われた大儺はなぜ節分に行われるようになったのか

大晦日に行われた大儺はなぜ節分に行われるようになったのかについてです。
節分の源流である大儺は中国では3回行われていました。三月(季春)と八月(仲秋)と十二月(季冬)です。しかし中国でも十二月(季冬)の大儺だけが重要視されるようになりました。
周時代(紀元前1100年頃)は太陰暦で、今の太陽太陰暦(グレゴリウス暦)とは全く違い、月の満ち欠けによって月日の流れを決めていました。新月の日〜満月の日までを一ヶ月としていたのです。
太陰暦の大晦日は現在の立春、すなわち冬から春に変わる時になります。冬から春に転じるとき疫病や悪鬼が出ないように古い年を追い出して、新年を迎えていました。
日本では少なくなりましたが、中華圏では春節という旧正月がお正月行事になりますよね!

春節について

このことが、徐々に節分行事を現在の立春の前日に行う方向へとシフトさせた、というのが現代では有力な説になっています。ただし、宮中行事としての追儺は節分と別に存在し続けました。江戸の初めまでは行っていたようです。
また寺社の存在も関わっているようです。宮中行事から民間へと広まる時、新年の説法などをお寺で行いその時に一緒に追儺の行事も行うようになりました。そこから民間信仰に合わせて立春の前日である節分に豆まきや鬼やらいを信徒と共に行ったのではないかとも言われています。
室町時代には「鬼は外、福は内」の掛け声や豆まきをしていたようで、この頃には寺社の行事として形が整っていたのでしょう。
江戸時代に入ると、宮中行事は衰えましたが今度は民間で豆を撒く節分が定着しました。疫病を祓うものから「魔除けと福を取り込む」行事へと変遷したのです。

個人的には「太陰暦だったので途中でうまく整合性が取れなくなって大晦日から節分になった」という説も好きです。

節分の本当の意味、なんのためにやるのか

現代の節分は「悪い鬼を追い払って豆をまく」という感じになっていますが、本来は「平安時代から続く疫病を祓うために大晦日に行われた儀式」であり「新しい一年を迎える年取りの儀式」「悪鬼を祓い疫を追い出す」という意味があるのです。

長らく宮中行事だった「追儺(ついな)」は室町時代以降は豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し、民間にも定着していきました。京都ではこの時期、表鬼門にあたる「吉田神社」と裏鬼門にあたる「壬生寺(みぶでら)」の節分祭がことに有名で、厄除節分会の期間中は大勢の人でごったがえします。
このような時代ですので、ぜひ節分を楽しんでくださいね!

節分と立春についての記事

節分と立春についての記事は下記になります。

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