これまで稲荷神社に行ってはいけない人やお稲荷さんに好かれる人の特徴などを紹介してきました。
商売繁盛、五穀豊穣の神様、稲荷神社…この稲荷神社を「怖い」「行かない方がいい」と感じる人も多いです。
低級霊が集まっているから危ない、中途半端な気持ちで行くと稲荷神社の祟りがあるなど、さまざまな都市伝説がありますよね〜。
今回は「稲荷神社はなぜ怖いのか」についてご紹介します。
伏見稲荷神社はなぜ怖い、稲荷神社とは
稲荷神社は全国に32000社以上あると言われており、日本の神社の中で最大の勢力を持つ神社です。その総本社は京都の伏見稲荷神社となっています。
稲荷神社の成り立ちは諸説あります。
土着の狐信仰と結びついた稲荷神社
稲荷神社の御使が狐である理由について最も有名な説の一つとして「土着の狐信仰から始まった」と言うものがあります。
狐は農業、米作の天敵であるネズミを食べてくれる益獣でした。お米の国日本では、ネズミを退治してくれる狐は信仰の対象になる程重要な存在だったので、そこからお狐信仰が始まり、これが後々の稲荷信仰に結びついたと言うものです。
この「土着の狐信仰から稲荷信仰へ」説は非常に有名でお稲荷さんといえば、この話と鼠の天ぷらがセットになって必ず出てきます。
餅と稲生と稲荷神社の成り立ち
山城国風土記(やましろこくふうどき)は、平安京遷都以前の山城国の文化風土や地理的状況などが記録されている地誌です。この山城国風土記は現存しているものはなく、他書などに引用などの形で逸文(いつぶん)として残っていて資料としての価値が非常に高いです。
奈良時代初期の 713年(和銅6)5月に元明天皇が、諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じたといわれています。山城国は現在の京都南部にあたります。下鴨神社や上賀茂神社があるところですね!
秦伊呂具と伏見稲荷大社、お稲荷様は何の神様
山城国風土記に伏見稲荷神社の由来となる物語が載っています。
これは簡潔にまとめると「秦家の祖先が餅を的にして矢を射ると、餅は白い鳥になり山の峰にとまった、その場所に稲穂が実ったのでここを「いなり」と呼んだ」と言うものです。
これでは全く面白味がありませんので、物語風にまとめ直したものが下記になります。
しかしその富に驕って、ある日矢の的に餅を使ったのだ。矢で射られた餅はたちまちのうちに真っ白な鳥となって山の峰へと飛び去ってしまった。飛び去った鳥はそこで稲になり、いつしかその神社の名は稲生神社となった。
秦伊侶具の子孫は、祖先のした過ちを悔い、稲荷神社の木を抜いて、家に植え祭るようになった。その植えた木が根付けば福があり、枯れると福がないと言われている。
こちらは原文です。
この記述について伴信友(ばんのぶとも 江戸後・末期の国学者若狭(福井県)小浜藩士。本居宣長没後の門人。 古寺社の古文書・記録を採集し歴史・古典の正確・精密な考証は国学者中最高とされた)は下記の考察しています。
山城国風土記の「稲なり生ひき。遂に社の名と為しき」からして、稲荷はやはり「稲生り」あるいは「稲成り」だったのでしょう。現在でもわずかですが「稲生」とか「稲成」としている稲荷神社が存在しています。
伏見稲荷神社のサイトも見てくださいね!
伊奈利山の三つの峰に神が出現しそれを祀ったのが伏見稲荷神社の始まり
伏見稲荷神社の具体的な始まりのときは「年中行事秘抄(朝廷の年中行事儀式について記した公事の書、鎌倉時代に書かれた)」や「二十二社註式(二十二社について記したもの、室町時代)」に「和銅年間に伊奈利山の三つの峰に神が示現したのでこれを祭った」と書かれています。
伏見稲荷神社のサイトには「和銅4年2月壬午の日」とありますね!西暦だと711年になります。この「十五箇條口授伝之和解」は秦氏系の社家が江戸時代中期の寛延3年(1750年)以前に編纂したものだそうです。
社記(十五箇條口授伝之和解)には《元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えています。
このように、ここ深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもち、御鎮座は和銅4年(711)2月初午の日と伝承されてきました。しかし、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼると考えられています。
伊奈利山の三つの峰に関しては「日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく、平安時代の日本で編纂された歴史書。六国史の第五にあたり、文徳天皇の代である嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う)」に天安元年(857)に「稲荷神三前に正四位下を授ける」という記事があります。
これが神の数が3柱になっている最初と言われています。
この3柱は「下社(中央座) 宇迦之御魂大神」「中社(北座) 佐田彦大神」「上社(南座) 大宮能売大神」で、現在はこれに「田中社(最北座) 田中大神」「四大神社(最南座) 四大神」を加えて5座を祭っています。
稲荷神社の主神は「宇迦之御魂(うかのみたま)神」、ウカノミタマのご利益
宇迦之御魂(うかのみたま)神が稲荷神社の主神となります。
この宇迦之御魂(うかのみたま)神は古事記によれば須佐之男神と神大市姫との間の子供で、大年神の妹であるということになっており、また延喜式では伊勢の神宮外宮の神豊受大神と同体であるとされています。
五穀発祥の元である保食神(うけもちのかみ)、そしていざなぎ・いざなみが産んだ阿波国の神大宜都姫とも同体です。
全て食べ物の神様で特に保食神(うけもちのかみ)は有名ですね!ご利益は「五穀豊穣」になります。
稲荷神社を広めたのは弘法大師空海
さて稲荷神社の総本社、伏見稲荷神社について紹介してきましたね。
伏見稲荷神社は秦氏の一族が奈良時代より前から祀り続けてきたようです。
秦氏ではこの神社の神官を完全な世襲ではなく、一族の中で最も霊的な力の大きな人が継ぐ形で祭祀を続けていたと言われます。
そしてこの神社を全国的な神社に発展させたのは弘法大師空海でした。
稲荷神社と弘法大師空海の伝説はたくさんあります。有名なものは「空海が東寺を作るとき、稲荷の山の木を勝手に切り出したため稲荷の神が怒って害をなした。そこで空海は稲荷様に謝罪し、寺院を建立するときは最初に稲荷神社をお招きするようになった」と言うものです。
弘法大師空海は、平安時代初期に実在したお坊さんです。遣唐使の留学僧として唐(中国)を訪れて密教を学び、帰国後に真言宗という宗派を開きました。彼は日本の仏教普及に多大な貢献をし、特に真言宗は爆発的な人気となって、日本全国に広がりました。
そのため、稲荷神社も一緒に全国に広がったのです。
伏見稲荷神社はなぜ怖い
これまで伏見稲荷神社についてご紹介してきました。この稲荷神社が怖い理由として考えられるのは、やはり「富に驕ったことの因果を受けて落ちぶれた」ことに由来するのではないかと思います。
この「伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)」は収穫した作物(穀物)を大切にせず、富に驕ったことの報いを受けているのです。
人は驕っているときは自分では気がつけないもの…そして受けた呪いは当代では全く解かれず「子孫が稲荷神社を祀って、さらに庭に植えた木が根付かないと福が訪れない」とまでなったのです。
また、伏見稲荷神社を受け継ぐ秦氏についてもオカルティックですよね。
「秦氏は神社の神官を完全な世襲ではなく、一族の中で最も霊的な力の大きな人が継ぐ形で祭祀を続けた」と言われると何か強大な不思議なスピリチュアル系のパワーがありそう…なのも稲荷神社への畏敬の念が湧き上がり「怖い」と感じてしまうのかもしれません。
稲荷神社に行ってはいけない人については下記の記事も読んでくださいね!
お稲荷さんに好かれる人の特徴などはこちらの記事を読んでくださいね!
稲荷神社はなぜ怖い、荼枳尼天と稲荷神社とその代償
さて、伏見稲荷神社の成り立ちについて詳しく紹介してきましたが、今度は豊川稲荷(曹洞宗)や最上稲荷(法華宗)のような仏教系稲荷について紹介します。
この仏教系稲荷こそが「稲荷神社は怖い」と思える総本山なのです。
荼枳尼天(ダキニ天)と稲荷神社
仏教系稲荷神社では荼枳尼天(ダキニテン)を祀っています。有名どころは豊川稲荷(曹洞宗)や最上稲荷(法華宗)でしょう。
このダキニ天は、ヒンドゥー教では「生きた人間の肝を喰らう夜叉」と言われています。彼女は血と殺戮を好む戦いの女神でシヴァの妻であるカーリー(画像はカーリーです)の侍女です。
裸で虚空を飛び回り、敵を倒してその生肝を食べていました。
このダキニ天がインド仏教のなかで、徐々に変化し大日如来(毘盧遮那仏)の化身である大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許されたという説話が生まれました。
これに関しては色々な説話があり、日本ではお釈迦様に「生肝を食われては人が死ぬ、もう命の尽きる人を見分ける力を分け与えるので、そういう人の肝を食べるようにせよ」と言われたことになっています。
ここで肝心なことは「どっちにしろ人の肝を食べてる」ということです。
荼枳尼天は日本では稲荷信仰と混同されて合体し、白狐に乗る天女の姿となっています。狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同じだったり、辰狐王菩薩とも尊称されています。
荼枳尼天(ダキニ天)のお稲荷さんはなぜ怖い、稲荷神社とその代償
さて、このダキニ天…オカルト好きにはかなり有名な神様です。
「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー(Ḍākinī)を音訳したもの。また、荼吉尼天、吒枳尼天とも表記し、吒天(だてん)とも呼ばれます。
この荼枳尼天には外法が派生しています。もともとダキニ天は人を選ばず誰でも願いを叶えてくれると言われていて、遊女や博徒、被差別階級にも広く信仰されていました。
ダキニ天の外法にはさまざまな都市伝説や言い伝えがあります。
- 今はすでにない真言立川流では、髑髏本尊と呼ばれる性的儀式で即身成仏に至ろうとするものを行なっていた。生身の骸骨や狐の頭蓋骨を本尊としその中に荼枳尼天を住まわせて法術を得ようとする呪法を行なっていた
- 茶枳尼天の秘法「性陀羅尼」には山野に蠢く全ての死霊を成仏させ祈願の障害を除くものであるが、これを授かるために片目をえぐって捧げる習慣もあったという
- ダキニ天の外法は自分の肝をダキニ天に捧げる密約をし、代わりにダキニ天がその人の願いを何でも叶えてくれる(徳川家康はこの外法により天下を取ったという都市伝説がある)
- 平清盛は荼枳尼天を信仰していてその力で一代限りの栄華を極めた(『源平盛衰記』にその描写がありますがこの物語は過分にファンタジーですので…)
荼枳尼天には「願いを叶える代わりに自分の命を差し出さなければならない」と思わせるような都市伝説がとても多いです。非常に大きな代償を要求されるわけです。
ダーキニーは中期密教になるまで、ずっと人の心臓を喰らう夜叉でした。大黒天に調伏されてもなお「死ぬ六ヶ月前の人間に取り憑き、死ぬまでは加護を与え、死んだのち心臓を食べた」のですから、自分の命の代償として願いを叶えると思われても仕方がないかもしれません。
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